2022年6月24日金曜日

続、絵本に纏わる

子どもの頃に、絵本に親しむという以上に興奮を覚えたのは例えば食べたり飲んだりする場面や奇妙で聞いたことのない言葉のリズムである。

このうち、食べる・飲むというのは子ども自身も日々経験していることで、いわば共感とか想像力の帰納の可能性にあの興奮の要因がある。一方で聞いたことのないリズムというのは知らない感覚の演繹的関心にある。

そういう意味ではああいう絵本を読むことは、既知を手がかりとし、また興奮を足場として未知の世界に関わってゆく、そういう行為だ。

ここで思い出すのは鶴見俊輔がアガサ・クリスティが生み出した二人の個性的な名探偵の特徴を一筆書きにした文章である。

クリスティは、百年は生きのこる名探偵をふたりつくりだした。  

 ひとりはエルキュール・ポワロ。ベルギー人。見栄っ張りで、衣服と口ひげの手入れに気をつかう。イギリス社会の最上層を動く顧問となり、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカを旅してまわる。犯人をあてる方法は、仮説演繹法にもとづき、決定的証拠のありかを割りだし、それを見つけて、一挙に事件を解決する。その結論は、犯人をふくめて、犯人と疑われたすべての者を一堂にあつめてその前で明かされる。 

 もうひとりはジェーン・マープル。イギリスの田舎、セント・メアリー・ミードの外に出ることはまれ。都会で事件がおこって相談に引っぱり出されたとき、自分の観察の中から似た例を思いだして、犯人をあてる。 

—―「ミス・マープルの方法」(鶴見俊輔『思い出袋』所収, pp. 12-13.)

子どもはいわば二人の名探偵の手法で、自分の手持ちの体験・経験を使い、あるいはまたそこまではっきりとはわからないままの、しかし確実に正しいと感じられる、快感を伴うような正しさにも信頼を置いている。

わたしがここで念頭に置くのはもう絵本の定番だけれど、例えば『アいたた先生』とか、『三びきのやぎのがらがらどん』とか、『おだんごぱん』である。

この『おだんごぱん』はロシアの童話というか民話というか、そういうものだが、再び鶴見俊輔の昔話にも出てくる。そういえば、『思い出袋』というエセイは何度も同じ話が、少し異なる文脈で変奏のように繰り返され、さながら時代をおいて絵本を読み返すような、不思議な感慨を覚えるエッセイ集である。静かな文体だ。

私が二歳から三歳のころ、英語の絵本が家にあって、それを親に読みきかせてもらったことはなかったのだが、絵から筋を想像できた。『しょうがパン人間 Gingerbread Man』という本だった。 

 老人夫婦が、小麦粉をこねて、子どもの形のパンを焼いた。その子供は家からかけだして、囲いを越えて出ていく。そのあとはよく見なかった。おそろしい絵が出てくるので、こわくてわざと忘れたのだろう。  何十年かたって、『おだんごぱん』(せたていじ、福音館書店、一九六六年)という日本語の本を自分の子に朗読してやって、そのときはじめて、しょうがパンの末路を知った。しょうがパンの子どもは、せっかく自由になって野山をかけまわったあと、狐に食べられてしまうのだった。 

 私としては、家を離れて、野山を自由にかけまわるところに心をひかれて、悲しい結末は見たくなかったから、見なかったらしい。八十年たって民話のあらすじを知ってながめると、自分の生涯がこの物語にすっぽり入っているようにも見える。 

 —―「悲しい結末」(鶴見俊輔『思い出袋』所収, pp. 90-91.)

現実逃避のように思える絵本に、しかし悲しい結末、受け容れがたい終わりが訪れそうになると、子どももそれを拒否する。子どもは絵本を、あるいは絵本も一つの契機として現実と格闘しようと試みるけれど、やはり受け容れがたいものはある。

だから、というと急に戻るようだけれど、親やその他の大人の目的によって、そうなるように、制御され尽くされた絵本というのはどうにも信用がならないねという感じがある。絵本は現実世界との格闘の場でもあり、忌避の場でもあり、基本的にはやはり現実世界と同程度に無秩序な世界だ。コントロールしようとすると、まるで現実世界の劣化コピーである。

今引いた鶴見俊輔の引用が如実に表しているけれど、そういう結末を拒否するというのもあるし、あるいは別の結末を夢想するというのもある。これは二次創作やサブストーリー、スピンオフを生み出すような現代の作品をめぐる欲求と基本的には同じものだし、例えば江戸の黄表紙なども当たった作品は後日譚はもちろん、前日譚、前々日譚なども生み出されていたという。作品の世界を拡げてゆきたい、ここで終わってほしくないというのは年齢も時代も問わない。

そうやって、現代は特にそうなのかもしれないし昔からそうなのかもしれない、現実世界と格闘し、見分けがつかない濁った世界に、区切りをつけてゆく。識別してゆく。そのために、絵本を定規や物差しや分度器にして、一生懸命やるのかもしれない。それを手あたり次第ともいうし、徒手空拳ともいう。

泥棒を撃退するのに一番いいのはそこいらにあるものを手あたし次第ぶつけることだという。そこらへんにあるものを使って、世界に対峙する子どもたち。実際には我々もそうだったような気がするんだけれど。

2022年5月25日水曜日

絵本に纏わる

 今みたいにデジタル・ツールや幼児教育が昔以上に親しまれるようになっても、あるいはそれゆえになのかもしれないが、絵本にまつわる話というのは盛んである。流行っているといっていいのかどうか。

絵本の本懐は子供を楽しませることであって、子供の方を見てるふりして親に説教垂れるのも、自分の思想を子供に植え付けようとするのも、全てまとめてクソです https://twitter.com/dai_cha_man/status/1507202172030980098

絵本についてはいろんな功徳・効能があるといわれる。「絵本を読み聞かされたから、わたしのような駄目な大人になってしまった」という人はあまりいないから、基本的には読み聞かせの対象だった子どもや、そのあと一人で読んだり、弟妹や親戚の子や知り合いの子に読んでやったというような人が、ある程度の自己肯定感とともに語る議論ということになる。

それで、私には子どもはおらず、甥っ子姪っ子とは飛んだり跳ねたり歌を歌ったり変な顔をしたりして遊ぶことはあっても絵本の読み聞かせをする機会がなく、そういう立場で見ていると、何だか変な絵本というのもある。変な絵本作家もいるらしく、たまにTwitterなどで話題になる、批判を浴びている。

変な絵本作家については措くとして、変な絵本というのは、例えば登場するキャラクターがゆるキャラみたいなシンプルさがあり、小賢しいことを言ったりやったりする。漫画的キャラクターとでもいうべきか。漫画的というのは線的なデザインで、これは悪口でなく例に挙げるのだが、ミッフィーみたいなのの、質の低いようなのが描かれている。

こういうデザインのキャラクターは昔の絵本には珍しかったような気がしてい、しかし今調べたところミッフィーと呼ばれるあのうさぎは「ナインチェ・プラウス」という名前で、日本語名は「ふわふわ うさこちゃん」というそうで、『ミッフィーとおともだち』という、そういえば有名な絵本に出ていたからここでは不適切な例であったし、言いたい話、これもまあまあ言いたい話だったのだがもっと言いたい話があるから聞いてもらいたい。

引用ツイートに言うように、親が救われるために選ぶ、子どもに読ませるというのは、そういう機能を一概に、子ども教育の全面について否定できないにしても、やはり「違うよね」というものがある。

結果的にそういう機能はあるにせよ、親が救われるため、あるいは大人の都合・論理の絵本選び、教育選びというのは何かいびつな感じがする。すべて制御可能かのような、少し違うかもしれないが下手な婚活アプリの要素還元主義的な条件のよう。


長くなりましたから、本題はまた次。


2020年12月3日木曜日

風呂

本について書いていたけれど、ツイッターに書き散らすことが多くてあまりまとまらない。これからは雑多な内容を、こちらでも書き散らすことにする。

お風呂について考えていた。わたしはお風呂が好きでございます。独り暮らしの頃は面倒でシャワーで済ませらり、入らないこともあったけれど今ではよほど泥酔して酩酊している時以外は入る。泥酔して入らなかった日も翌日には入らないと気持ちが悪いし体の調子が悪い。だからせっせと入っております。

お風呂に入って、ご本を読んでおります。小説がほとんどで、今一日で本を読む時間のほとんどがこのお風呂本である。その次がご不浄本、こちらは再読に充てることが多い。

お風呂では歯磨きもする。歯磨きをしながらだから、やっぱり文庫本程度が楽でいい。

それで、ゆっくり入って、体を洗って、また本を読んで、本を置いて、腕までじっくり浸けてから出る。出た瞬間、「嗚呼ー気持ちいい!」とひとりごつ。この独り言で、実際に気持ちいいような気分になる。風呂に浸かって良かったなあと、有森さんのように自分で自分を褒めたくなる。

だいたい仕事を終えて帰ってくる時は「糞ったれが!」みたいな気分なので、チワワが玄関で伸びーっしに来てくれたり、それがなくてもお風呂で気持ちいい!となって、けっこう気分が変わって、それも良いほうに変わって、勇気凛凛とはいわないが、さあ頑張って酒を飲もうという気分になる。

2019年1月29日火曜日

アーナルデュル・インドリダソン著 柳沢由実子訳『声』

クリスマスシーズンで賑わうホテルの地下室で、一人の 男が殺された。ホテルの元ドアマンだった男は、サンタ クロースの扮装でめった刺しにされていた。捜査官エー レンデュルは調べを進めるうちに、被害者の驚愕の過去 を知る。一人の男の栄光、悲劇、転落.........死。その裏に 秘められた悲しい真実。全世界でシリーズ累計1000万部 突破。翻訳ミステリー大賞・読者賞をダブル受賞の傑作。[裏表紙より]

ほとんどすべてがホテル内から語られるクリスマス・ストーリー。

クリスマス・ストーリーらしい平和さとむごたらしさが共存していて、欧米のミステリーでは定番の、刑事の仕事の充実の犠牲としての家族の崩壊が本作にもあるのだが考えてみるとそういう分裂が際立って目立つのはクリスマスなのかもしれない。遊ぶ人と仕事をする人。他人の幸福と自分の不幸。楽しく生きている者と寂しく死んでいる者。

被害者はかつて天使のような美声をもつ神童として扱われた男で、その才能が喪われた瞬間から彼の人生は長すぎる余生となった。父親は彼を見放し、かつての聴衆は彼を嘲るようになった。

それで、でも彼もそうだし、主人公の刑事の娘もそうだが、奪われるということと奪うということが表裏一体というか、あるものを得ているときに他人を奪っているかもしれない。奪い返したからいいということにもならない。

だから他人に優しくしようということでもなくて、奪ったり奪われたりするもの、それが極めて偶然にというか気まぐれ的に振り分けられる。このむごさ。

ホテルの料理の描写は大変豪華。アイスランドを舞台とした登場人物の名前を覚えるのは大変だがとても良かった。


2019年1月28日月曜日

三島由紀夫『永すぎた春』

古本で手に入れて、なかなか読めずにいたが読んであまりの通俗っぷりに驚いた。今では古風すぎる作品で、文庫解説の十返肇が三島の藝術小説と関連づけて一生懸命褒めているのが苦笑を誘う。

 たとえばこんなところ。


http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/182366793943/折も折作者がこの物語の中で表立って登場させたことのない百子の兄が盲腸炎で入院する


ここで作者三島が登場するのがおもしろいし、別にモダーン文学の飛び道具としてやっているわけではない。昔はこういう手があったんだろうなというくらいで、なんだか他愛ないというか、まあ通俗な感じはする。

物語は若い男女がプラトニックな恋愛関係を続け、さまざまな障害が起こり、それでも破綻するほどではなくいつの間にか障害はなくなり、また別の、なんとか切り抜けられるんじゃねえかという程度の障害が発生し、という、飲んだり吐いたりというような、橋田壽賀子感のある筋である。

三島由紀夫入門としてふさわしい。とは絶対にいえないか。

2019年1月5日土曜日

伊藤整『火の鳥』

イギリス人の父と日本人の母親の間に生まれた主人公の生島エミ子は田島先生の主宰する薔薇座の看板女優である。純粋演劇と実験劇場である薔薇座の中での関係に翻弄され、また大きな影響を与える一方、エミ子は映画や左翼演劇とも関わる。そこで出会った男たちとの交際を通して、愛欲や自分の中の女性性を自覚し、さらには自分と藝術との関係を更新してゆく。


というわけなのだが徹頭徹尾自我の意識が強く、また先輩女優や演劇・映画関係者からの時に冷たい視線、そして魅力的な自分への男たちの好色な視線もしっかり自覚しつつ、それをエネルギーにして、というより貪り食って利用し、一方でしばしば傷つき、という格闘、これがすごい。そして単に人間関係の中で格闘するだけでなく、その格闘によって藝術としての演劇に活かしていこうとするそのバイタリティが強い。

しかし藝術としての演劇はエミ子にとって単なる到達地点ではない。それは劇団の他の者たちが神棚に捧げるようにしてありがたがっている藝術という観念を、自分の手で掴み取ろう、喉元に食らいついてやろう、そしてその正体を見てやろうという力強い、主体的な態度である。男たちに求められ、それに応じ、傷つきながらもさらに求めてしまうのと同じように、というよりも男たちとの関係も、自分の中の女性性も、支配されなければ支配されてしまうというように見える。


http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/181732462508/私は型どおり大都劇場の廣い舞臺でワーリャの役をしていたけれども大鳥さんや笛子さ

この徹底した自我と世界との関わり、あるいは藝術への愛憎とでもいうべき感情ということで、解説の瀬沼茂樹は本作をサマセット・モーム『劇場』と対比しているけれど、そしてわたしはこれを読んだことはないけれど、どちらかというとジョイス『若い藝術家の肖像』の影響を感じる。ジョイス研究者としての伊藤整というのがもちろんあるわけだが。

また伊藤と同様にジョイスの影響を強く受けていた福永武彦『海市』も、藝術家小説ということでは連想される作品だ。こちらのほうが少し甘口であろうか。





2018年6月11日月曜日

マイ・シューヴァル, ペール・ヴァールー著, 柳沢由実子訳『刑事マルティン・ベック ロセアンナ』

刑事マルティン・ベックシリーズ第一作目。

この前に松本清張『ゼロの焦点』を読み返していて、こんなにおもしろかったっけという気持ちだったのだが(後半の主人公の思考をたどるところはやや退屈)、『ゼロの焦点』の時代設定が1950年代なかば、『ロセアンナ』のそれが1964年。

「もはや『戦後』ではない」が載ったのが1956年の経済白書、東京オリンピックが開かれたのが1964年である。だいたい第二次世界大戦から少し経って次の世代に入ってゆくという時代。

作品の間に十年ほどの差があり、また戦争の中立国と敗戦国という違いはあるが、それでも大きな違いを感じさせる。

独立心が強く、また結婚制度にもとらわれまいとして自由を求める女性を描く『ロセアンナ』。一方で『ゼロの焦点』では「パンパン」であった過去の発覚を恐れる犯人、また特に惹かれ合ったわけでもないのに、理解したとは言い難い相手と結婚する主人公。

アマゾンのレビューには「古臭い」なんていう意見も載っている二つの作品だけれど、こうやって並べてみるとそんなことはなくて、性役割や社会参加についてシューヴァルとヴァールーの社会批評眼は本当に現代的だし、付け加えれば清張先生のほうだってネットで追跡される社会ではリアルな恐怖があるだろう。


あと、こんなところは『笑う警官』になかったので良かった。
http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/174686929308/彼はサンドウィッチビーフの薄切りにタマネギ添えのメインディッシュそれにアムステルビールを注文し


美味しそう。食べ物の描写については『笑う警官』のエントリを。

http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/174686906363/頭痛がますますひどくなった机の引き出しに頭痛薬を探したが見つからずコルベリからもらおうと部屋へ行っ


http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/174686919303/これはとんでもない規模の仕事になるだろうなマルティンベックが言った