2017年1月30日月曜日

ミシェル・ウェルベック著, 中村佳子訳『ある島の可能性』

クローン技術によって、世代を超えた生命維持が可能になった“ネオ・ヒューマン”。さまざまな欲望から「解脱」して、安全で、しかし他者と接触しない生活を送っている。しかしその永遠の生命が保障された生活から離れ、野蛮な旧人類がまだ潜んでいる世界に出ていく者が少数ながらいる。

世界の果てでも、改良された肉体は生命を喪うことがない。ラストの何もない風景の中、ただ生きているという諦めとともに無感情に漂っている主人公。とても映画的だ。

愛犬が死ぬところは読んでいて切ない。


2016年6月16日木曜日

丸谷才一「贈り物」「秘密」(『にぎやかな街で』所収)

「贈り物」は軍隊生活の莫迦莫迦しさ、滑稽さを描いた作品だが、一方でその哀切さも胸に迫る。

酔っ払って川に落とした軍刀を部下に探させる見習士官の小隊長、歩兵砲のカバーが紛失して大騒ぎする部隊。そして歩兵砲のカバーで好きになった女に財布を贈ろうとする兵隊……。

この無闇に武張って形式的で暴力的な軍隊の生活を、丸谷才一は短い期間ながら経験していた。


http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/94787294978/そんなふうにしてゐるうちにあの八月十五日が来たそしてそれは喜びが胸に湧わき起るといふやうな派


徹頭徹尾軟派で通した丸谷才一ならではという作品。短いがとても良い。





「秘密」は『笹まくら』に直結する徴兵忌避の物語。

徴兵忌避についてはもういいやというくらいなので、他の話。

主人公のお祖母さんが出征前夜、「チョウスウのため死んだどて、どもならねすけの」「ええが、チョウスウのため死ぬのはやめれ」と訛りの強い口調で教え諭す。この「チョウスウ」が何なのかということが謎となって、小説の半分くらいまで進む。このあたりがいかにも『樹影譚』を書いた作家らしくておもしろい。

さらになぜお祖母さんがそのことばを口にしたのか、幕末生まれのお祖母さんの近代日本観がどういったものか、また遠く聞こえる湯治場での宴会の歌の国家観と、主人公は考えづめに考える。この調子を嫌う人もいるけれど俺は好きだ。


にぎやかな街で

2016年6月15日水曜日

丸谷才一「にぎやかな街で」(『にぎやかな街で』所収)

表題作は大江健三郎を思わせる題材の採り方で、最初に読んでからしばらくして誰の作品だったか忘れていた。しかし読み返してみると実に丸谷的作品で、というよりも根源的なものが含まれているような気がする。

 川本三郎も、
のちに『女ざかり』を書いた作家と同じ作品と思えないくらい、これは異様な小説です。若いころの丸谷さんは、こういう小説を書いていたのかと驚きます。これは今、なかなか手に入りにくくなっている本ですが、私は丸谷さんを語る時に欠かせない小説だと思います。
「昭和史における丸谷才一」, 菅野昭正編川本三郎・湯川豊・岡野弘彦・鹿島茂・関容子著『書物の達人丸谷才一』所収.
と述べている。

舞台は戦争末期の広島と十年後、二十年後の広島。二人の男が出てくる。一人は在日朝鮮人で子どもを戦後の混乱期に亡くした主人公、高(通名高井)。もう一人は戦争直後に出会った野村。

丸谷作品らしく死の影が色濃い。野村は諍いから妻を殺していた。しかし原爆投下の混乱で彼は罰せられない。

http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/145901230468/彼はちょっと考えてから-やはり楽な気持になりたいから-そしてすこし間をおいて

罰によって社会に受け容れられたいと願う野村と、戦争によって国家そのものを相対化し、周縁化されている高。

高は「しあわせな男だ」と野村に羨まれ、帰り道につぶやく。かつて息子を亡くした日に、<神信心のほうも駄目>だった男はせめて神がこの苦しみを見ていてくれればいいのにと願う。あるいはそう信じられればいいのにと願う。

この見棄てる国家・見棄てる神、あるいは国家の不在・神の不在というのは長く丸谷才一のテーマとなった。
にぎやかな街で


2016年6月14日火曜日

森見登美彦『四畳半神話大系』

最初は「どうだ、巧いもんでしょう、おもしろいでしょう」ってな文体に参ったが、企みがなんとなくわかると一気に読ませる。

本当はもう少し年配の登場人物を配したらもっと深くなったのだろうけれど、ある種の人生の達観や覚悟みたいなものを錯覚しきってしまった年齢として大学生とその周辺という設定は良いのかもしれない。

そういう意味でも(かつての自分のような)若い子らに薦めたいようなジュブナイル性もある。俺もまだまだ若いけれども、俺には平行世界がないかもしれないと思って読み終えた深夜少し泣いた(嘘)。


2016年3月23日水曜日

『トガニ 幼き瞳の告発』(2011)

韓国犯罪映画ウィーク!ということで、ウィークの割には更新遅いんだけれど。






トガニ 幼き瞳の告発 - 作品 - Yahoo!映画

カン・イノ(コン・ユ)は大学時代の恩師の紹介で、ソウルから郊外のムジンという町の聴覚障害者学校に美術教師として赴任する。着任早々彼は校長の弟の行政室長(チャン・ガン)に、教職を得た見返りとして大金を要求される。最初から学内の重苦しい雰囲気を奇妙に感じていたイノは、ある晩、帰宅しようとして子どもの悲鳴を聞きつける。
これも実際に起きた事件をベースにしているそうで、正直気が滅入る題材だ。

韓国映画、特にこういう事件物だと都市から地方にやってきた者への警戒感というのがしばしば描かれる。それは日本にも「都会もん」「田舎もん」というようなのとしてあるのだろうけれど、しかしそれがここまで幾度も描かれるという感じはしない。

去年親戚のうちで会った、いとこの友人の韓国人の男の子やら女の子(キュートであった……) によると、韓国に関するニュースなんかでよく耳にする「ソウル近郊」というのは実はものすごく広い地域を指しているそうで、よその人に「どこ出身?」っていわれて面倒くさかったらソウル近郊と答える、それくらいだそうである。

いわば大きな都市が一極としてあり、あとは田舎がある。そういう観念。そこに、ある種「地方(田舎)の因習」めいたものが描かれる素地がある。都市性の犯罪よりも地方性の犯罪というのが韓国映画で描かれることが多いように思う。

この「因習」というのはこの映画では冒頭の賄賂の要求を指し、また子どもへの虐待に向かい、さらに司法の場では「前官礼遇」(幹部級の検事が弁護士に転職した際(いわゆる「ヤメ検」)、初めて担当する弁護事件で勝たせてやる慣習)ということにつながる。

近いうちにエントリに上げる『殺人の追憶』以降、実際の犯罪を描いた作品が、もちろんヒットしたことも影響して量産されるようになって、韓国映画界はこの手の社会問題を取り上げる意欲が旺盛だ。考えてみるとこういう事件は日本にでもある。そういう時に、韓国は都会から田舎への視点を採用して「因習」をキーにして捉えた。日本ではどう作るだろうか。

いろいろと考えさせられるし(禍々しいけれど)おもしろい映画だった。かなりお薦めであります。



  • 法廷で検察(=被害者の味方)に握りつぶされた秘密の証拠が、冒頭の映像の答えになっていて、これは実に映画的で良かった。裁判での双子の判別、これもこの映画でしかできない方法。



  • 韓国映画を見ていると韓国のキリスト教というのを勉強しなきゃならないなと思う。


2016年3月2日水曜日

『殺人の疑惑』(2013)

韓国の犯罪映画というのはここ十数年流行といっていいくらいの兆しを見せているようで、特に冷酷で社会的影響を呼んだ事件をモデルにし、あるいはそれから影響を受けた作品が相次いで公開された。

そういうわけで韓国犯罪映画ウィーク!と称して、実際には毎日でもないし一週間でもないけれど何本か続けて見た(「帰ってきた韓国犯罪映画ウィーク」「韓国犯罪映画ウィーク春の特別篇」などという形で)。

たくさんネタ・バレもするだろうがそこは映画に詳しくないしブロガーでもないし、業界のしきたりにしばられずに気にしないでやっていこう。

ひとまずこれ。





殺人の疑惑 - 作品 - Yahoo!映画

この日は「なんか美女が出ていて人殺しを扱う映画はないかな」ということで、このジャケット?というのか何なのか、これに惹かれて見た。

親一人子一人で暮らす仲の良い父娘、しかし娘は父親が実は時効間近の未解決事件「イ・ヒョンホ君誘拐殺害事件」の犯人ではないか……?と疑い始める。



サスペンスの手法としてはあんまり上手じゃない感じで、いちいちこちら(観客)とあちら(作者)のテンポがずれる感じだし、音楽はやたらと鳴りっぱなしで日本の下手なドラマを見ているようだしということでちょっといらいらさせられた。

一コマも長回しっていうんですかね、ああいうのを意識したのではなく(それはそれで厭らしいのも多いけど)、冗長という印象を抱かせる。

さらに、美女を見たがってこんなことを言うのは何だけれど、娘が妙にセクシーな恰好でうろうろしているし、父親とのスキンシップの過剰な親密さははっきりいって異様である。こんなに娘とでれでれしている父親、こいつは殺人事件の犯人かどうかはともかく怪しいことは確かだ。

しかし親密な愛情を抱いている相手が実は恐ろしい人間なのではないかという疑いは、ある種普遍性に通じるものがあって、少し形は違うけれど「貰われっ子妄想」なんかもそういうところがある。

そういう疑念は生まれたり消えたり、いわば寄せては返す波のようにいくども綾をなしていくもので、特にこんなに恐ろしい思いつきであったら「犯人では?」という疑う気持ちと「いやそんなはずはない」という打ち消す気持ち、これがきつい味になってこちらをひりひりさせる、させてくれなきゃ困るところだがどうもその宙ぶらりんのぶらぶら感が足りない。

イ・ヒョンホ君殺害事件についても韓国社会としては常識の範囲内なのかもしれないが、映画としてはもう少しだけ説明があっても良かった。

ラストの二番底としての種明かしは良い。

2016年1月22日金曜日

原点のまがまがしさ

大江健三郎『美しいアナベル・リイ』を読みました。

単行本の時の題は『臈(らふ)たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』。この題は小説中にも引用される日夏耿之介訳のエドガー・アラン・ポーの詩から、あるいはポーの詩の日夏耿之介の訳から。この題のほうが良かったような気もするね。

そういえば小谷野トン先生のお弟子さん、じゃなかったかもしれないが、そういう大学院生だかで「図書館司書に『臈(らふ)たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』の「臈たし」が読めないつって怒っている人がいて、トン先生が「そんなに怒るほどのことじゃない」なんてことがあったのを思い出す。

閑話休題。

第四章「アナベル・リイ映画」無削除版のところ。

後期大江作品しか読んでいないんだけれど、戦後混乱期の父の死、祖母と母の活躍、父の弟子の暗躍、進駐軍との交際というのは幾度も、しかもそれぞれにずれた形で描かれ続けている。

そして実際、何があったのかよくわからない。かなりあからさまに描いているようでいて、はっきりしたところがわからない感じもある。四字熟語でいえば隔靴掻痒というやつ。

しかしその中のいくつかのイメージに共通しているのは、性的であり、暴力的である、あるいは何となくそれを伺わせるものであり、そのはっきりとは見えない霞がそれゆえに実にまがまがしい、はっきり見て確かめたいようでもあり、見たことでの確実な戦慄を予感させるため目を背けたくなるようでもあり……という感覚だ。

『取り替え子』での塙吾良・古義人とピーターももちろんそうだったね。

少しく畑違いでもありつつしかし文学と近接した藝術への誘いを受けるという、最近の大江作品。本作では映画のシナリオ。『憂い顔の童子』では安保反対運動を模した、あるいは祭祀化した演劇的アクティビティ。『さようなら、私の本よ!』では建築。

そういう活動の中で、愛媛の山の中での、懐かしくもあり、まがまがしくもある過去を見つめることになってプロジェクトは破綻していく。破綻していく中で、主人公は激しい暴力衝動を覚えて、ほとんど死に向かって、といって差し支えないような態度で没頭していく。

こういうところが最近大江が引くエドワード・サイードから受け継いだ「後期の仕事」のありようではあるのだろう。

それでも、以下のような引用部分はやはり楽しい。


http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/137736180573/中略



http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/137736529278/私は小説の原稿について編集者から意味のあいまいさや語句の重複を指摘されることこそしばしばだがこれだ

http://ikazuravosatz.tumblr.com/post/137737242403/私らは応接間に隣り合う黒ぐろとした板張りの食道で夕食をとった料理は柳夫人がとサクラさんはいっていた